苦手だった父が肺がんに。
こんにちは、いちるです。
定年退職し、嘱託職員としてその後も働いていた父ですが、その任期も終わりようやく老後の悠々自適な生活をスタートした父。
しかし、その生活も長くは続きませんでした。
父は病院嫌いで、健康診断以外で病院に行った事がない程でした。
年に一度、熱を出すかどうか。
大きな怪我も病気もありませんでした。
もともと我慢強く、少し体調が悪いとかどこかが痛いくらいでは、家族にも言わない人でした。
そんな父が、ある日
「うーん」
と、背中の右側を押さえながら眉間にシワを寄せ、辛そうな表情を浮かべました。
母がどうしたのか聞くと
「肋骨が痛い」
と。
折れてるかもしれないから病院へ行こうと言う母に
「ただの神経痛だ」
と、やはり病院へ行くのを拒んでいました。
しばらく様子を見る、と意地でも病院に行くのを嫌がった父ですが、いよいよ痛みで夜も眠れない程になり、ようやく重い腰を上げ、病院へ行くことにしたのです。
そして、いくつもの検査の結果
肺がん
と診断されました。
ヘビースモーカーだった父。
私が喘息の発作を起こしている時でも、構わず近くでタバコを吸うくらい。
1日2箱近く吸っていたんじゃないかと思います。
そんな父の口癖は
「タバコで肺がんになるなら本望だ」
でした。
そしてついにその本望が叶ってしまったわけです。
腫瘍が肋骨に癒着していたため、肋骨に痛みが出たそうです。
もっと早く受診していれば…とお医者様に言われたそうです。
が、幸いにもまだ手術出来る段階だったので、すぐに摘出手術が行われました。
肺のほとんどを切除する手術でした。
術後、ベッドで眠る父を見て、
「お父さんってこんなに小さかったっけ…」
と思ったのを今でも覚えています。
その後、自宅療養しながらがんの治療を続けていた父ですが、リンパに転移し、余命1年の宣告を受け、頑張ってくれましたが、ホスピスに移されてから数日後に、家族に見守られながら息を引き取りました。
64歳の若さでした。
父に花嫁姿を見せたかったし、孫も抱かせたかった。
何より、もっとたくさん話をすれば良かった。
小さい頃から父が苦手で怖くて。
話しかけても、まともな返事なんて返ってこない。
だからずっと父との接触を避けていました。
父の愛情はわかっているけど、どうしても自分からはいけない。
でも、勇気を出して、自分から父の胸に飛び込んで行けていたら。
もっと父娘の関係は変わってたのかもしれません。
そして父がまだ生きていたら、娘とどうなっていただろう。
考えは尽きません。
父の担当医だった先生は、父が亡くなった時
「もっと出来ることがあったかもしれない、もっと手を尽くせたかもしれない。本当に残念です。申し訳ありません。」
と、涙を流して下さいました。
こんなに患者や家族の事を思ってくださる先生に診てもらえて、父は幸せだったと思いますし、私達家族も感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、やはり先生がおっしゃっていたのは
「早期発見・早期治療」
なのだそうです。
それが出来れば、治せる確率はグンと上がるのだそうです。
めんどくさいのはとてもわかります。
私も病院嫌いなので。
でも、後悔するくらいなら、めんどうでも行きましょう!
健康診断はもちろんですが、体に異常が出たら診てもらう。
それで何もなければ安心するだけの話ですから。
私も今度、年に一度の健康診断行ってきます!
パニック障害を克服?しかし…
こんにちは、いちるです。
メニエール病になり、入社早々数日欠勤をいただいた私はやっと出勤出来るようになり、正社員として働き始めました。
私が勤めていた会社は毎月地元のクーポン誌を発行している広告代理店。
立ち上げてまだ10年も経っていない若い会社で、支店の社員はわずか6人の小さな会社。
そこに私ともう一人男性が採用されました。
そんな小さな会社だったので、企画営業とはいえ、特集の企画から始まり、店舗などへの広告掲載の営業、契約、取材、撮影、原稿作成、広告デザイン、校正など、自分の取引先の広告全てを自分でやる。
月刊誌なので毎月校了日があり、校了1週間前くらいになってくると、朝方まで原稿作成をし、一度家に帰って数時間後にまた出勤、という毎日になります。
出勤は10時、定時は19時。
校了前になると帰るのは早くて深夜2時。
残業代なんて出ませんでした。
それでも続けられたのは、職場環境が良かった事と、基本的に営業で外回りなので自分の好きなように動けた事。
少し体調が悪い時は、駐車場に車を停めて休めたりしたので、それがかなり助かりました。
毎月校了前はしんどかったですし、なによりパニック障害は規則正しい生活をするのが絶対条件でもあるのに、それに逆行した生活を送っていたのです。
それでも、仕事をしていくうちに私は少しずつパニック障害を克服していっていたように思います。
一人でヘアサロンにも行けたし、映画を見に行ったりもしたし、バスに乗る、電車に乗って東京にも何度か行きました。
パニック障害になってすぐの時は、ショッピングモールに行くと気持ち悪くなってしまう程だったのに…。
通院し、薬は飲んでいましたが、他に特にこれと言って何かしていたわけではないです。
社員として働いている、家にお金を入れている。
その事実と大変だけどやりがいのある仕事をしている事が、自分の自信になったことで精神的に落ち着いていたのではないかと思います。
プライベートでは、カフェのバイトで知り合った人と付き合っていましたし(現在の夫です)、仕事が早く終わった時は友達や同僚と飲みに行ったりと、充実した毎日を送れていました。
もちろんストレスはありました。
校了前は特に残業がエゲツなかったので(^_^;)
20代だったから出来たんだろうなと思います。
アラサーだった私は、彼との結婚をほんのり意識し始めていました。
そんな時でした。
父の体に異変が起きたのです。
メニエール病になりました。
こんにちは、いちるです。
カフェでの仕事を始めた私は、通院し薬を飲みながら、時には仕事中に発作を起こしたり、体調が悪くなって早退したこともありましたが、バイト仲間がみんな仲良しで、プライベートで遊びに行くほどだったので、気がつけば3年程働き続ける事ができました。
まだパニック障害が完治したわけではないけれど、ここまで体調が戻ってきているし、普通に働けている。
そろそろ正社員として働こう
そう思った私は、正社員の仕事を探し始めました。
そして、今までやったことのない仕事をしてみようと思い、地元誌の広告代理店の企画営業の仕事にチャレンジすることになったのです。
無事に採用された私は、新しい職場、新しい人間関係、新しい環境に緊張したのかもしれません。
入社してわずか3日目の朝。
起きようと体を起こした瞬間、グラ~ッとめまいがしたのです。
少し休めば治るかな
と思ったのですが、頭を動かす度にめまいを起こし、とても起きられる状態ではありません。
その日は会社を休み、母に付き添ってもらい、耳鼻咽喉科を受診しました。
その場で目を閉じた状態で足踏みをしてどのくらい最初の位置からずれてしまうか、真っ直ぐ歩けるか、聴力はどうか、などいろいろな検査を受けましたが、一番しんどかったのは
耳の中に水を入れてわざとめまいを起こさせる
という検査です。
ベッドに横向きの状態で横になり、耳の中に水を入れます。
すると強制的にめまいを起こすことが出来るそうなのです。
そして、めまいが落ち着くのが遅かったほうの耳が異常がある。というのがわかる検査なのだそうですが、検査の前に先生が
「かなり辛い検査だけど頑張ろうね」
と前置きされまして。
え?ちょ、ちょっと待って!
という間もなく
「はい、じゃ水いれるよ~」
という言葉とともに、水が入ってくる音。
そしてその直後。
グルグルグルグル
と、頭を支点にして誰かがベッドを回しているんじゃないかと思うような感覚に襲われました。
とにかく不快で
「うう…」
と声が出てしまいました。
先生が
「頑張って」
と声をかけてくれましたが、とても返事ができる状態ではありません。
2分程で落ち着き、ホッと息を吐くと、休む間もなく今度は反対の耳です。
またもグルグルグルグル。
検査後、しばらくベッドの上で休み、診察室に呼ばれ検査結果を聞くと
と言われました。
治るのに数日かかると言われ、私は上司に連絡。
入社したばかりで申し訳ないと言いながら、なぜこのタイミングで、と情けなくて涙が出そうになりました。
「気にしなくて大丈夫、しっかり休んでちゃんと治してからおいで」
と言って下さり、結局3日程欠勤し、スタートからつまずく結果となってしまいました。
メニエール病は癖になる、とどこかで聞いた気がするのですが、私は今の所メニエールは再発していません。
が、たまにめまいを起こす事はあります。
回転性のめまいで、耳鳴りを併発します。
耳石を動かすと症状が落ち着くので、めまいを起こした時はしんどくても頭を動かしてめまいを軽くします。
すると動けるようになります。
※あくまでこれは軽いめまいだったり、めまいの他に特に症状がない場合に効果的な方法なので、酷い頭痛や吐き気がある・嘔吐しているなど、他の症状がある場合は安静にして病院を受診して下さいね!
あとは、めまい予防体操をやって、めまいが起こらないように気をつけています。
参考HP
私のように軽いめまいを起こしてしまう方、ぜひやってみて下さい。
自分で自分を追い詰めていただけだった
こんにちは、いちるです。
家に引きこもるようになり、食事も摂らなくなった私。
心配する母には
「ちょっと体調が悪くて食欲がない。」
と言いました。
もちろん、死ぬことを考えているなんてことは、口が裂けても言えません。
母は、何かを感じ取ったようでした。
俯く私におもむろに母がかけた言葉は
「別にアルバイトでもいいんじゃない?」
でした。
「え…?」
あれほど正社員で、と言っていた母が実にあっけらかんと言い放ったのです。
「いや、でも正社員じゃないとダメなんでしょ…?」
「だってしょうがないでしょ?毎日ハローワークに通ったって出来そうな仕事ないんでしょ?だったらもうアルバイトでもなんでもいいじゃない。アルバイトしながら正社員の仕事探したって良いんだし。」
ポカン、としたのを今でも覚えています(笑)
それならそうと、早く言ってくれれば…!!
脱力感と同時に少しの怒りが湧き上がりました(笑)
だって私は母が「正社員で」と言うので、必死になって探していたのです。
実家にお世話になっているし、生活費まで出してもらっているし、正社員の仕事で安定した収入を得て、少しでも家にお金を入れろ、という事だと思っていたので。
その事を母に伝えると
「もちろんそれがベストだけど、今はそれが出来る状態じゃないんでしょ?だったらしょうがないじゃない。」
と。
なんじゃそりゃそりゃ
でした(笑)
18で上京して25まで7年間、東京で一人暮らしをしていたからなのか、
母ってこんな人だったっけ…?
と。
家族で一番の理解者であり、味方であると思っていた母からかけられたプレッシャー。
弱音も吐けなくて、今日も良い仕事はなかったと告げる度にため息を吐かれ、期待に応えられない自分が嫌で、今思えば相談出来る人はいたのに、誰にも相談せず、一人の世界に入り込み、死ぬ事ばかり考えていた毎日。
私は母の言葉に追い詰められていたのだと思っていました。
なんとしてでも、正社員の仕事でなければこの家に置いてもらえない。
誰もそんな事、一言も言っていないのに、自分でそう思い込んでいたのです。
仕事が見つからないのは自分がダメだからだ。
そう思って、自分を責めることしかしなかった。
だから、仕事が見つからない私が家にいたら、両親に迷惑をかけるだけ。
だったらいなくなればいい。
そんなふうにしか考えられなくなっていたのです。
そうなる前に、母に言えば良かった。
「今は正社員で仕事は難しい。とりあえずバイトして体調を戻していきながら正社員の仕事を探したい。」
そう言えばきっと、母もそして父も「ダメだ」と言わなかった。
きっと私の意見を尊重してくれたと思います。
結局私の一人相撲だったのです。
こうして私は母の言葉がキッカケでプレッシャーから解放され、
もう一度ハローワークに行き、今度はパートの求人を探し、飲食店で働いていた経験を活かし、カフェの求人で面接を受け、その場で採用してもらえることになったのです。
ずっと止まっていた時間がようやく動き出した瞬間でした。
死ぬことしか考えない毎日
こんにちは、いちるです。
なかなか正社員で働けそうな仕事が見つからず、毎日のようにハローワークにも通っていましたが、事務系の仕事はとにかくワード・エクセルは最低条件としてあり、キーボードを打つくらいしか知識のない私には到底無理。
パニック障害な私でも出来そうな仕事…と探すと、どうしてもバイトになってしまいます。
でも母からは「正社員で」と言われている。
どうしよう、どうしよう…。
今日も目ぼしい求人はなかった。
また母にガッカリされてしまう。
そう思い、嫌な気持ちを抱えながら帰宅しました。
自宅に帰り、夕食時、案の定母から
「良さそうな求人あった?」
と。
「いや…やっぱり正社員だとなかなか私ができそうなのがなくて…」
「そんなのやってみなくちゃわからないじゃない。とにかく自分の興味のある仕事で探してみたら?」
「でも私、パソコンのスキルないし…。」
「仕事しながら覚えていけるわよ。」
「うん…。」
「とにかく毎日ハローワーク行って探しなさい。」
仕事が見つからない焦りが、日に日に重いストレスとなって、私の心に積もっていきました。
それから、朝起きるのが嫌になりました。
ご飯も食べたくなくなりました。
ハローワークにも行きたくなくなりました。
大好きなテレビも見たくなくなりました。
両親が仕事で出かけ、家に一人になった私がしたこと
それは
キッチンに座り込んで、包丁を胸に突き立てる
死んだら楽になれる
このまま包丁を思い切り心臓に突き刺したら死ねる
死ぬまで苦しいだろうけど、少しの辛抱だ
そう思いながら、でも手を動かすことが出来ないまま何時間もその姿勢のままで夕方になり、両親が帰ってくる時間になると、包丁をしまって何事もなかったかのように部屋に戻るのです。
車で出かけなければならない時は、
このまま目をつぶったら、どこかに激突して死ねるかなと考えたり
首を吊るのは苦しそうだから嫌だし、手首を切るのも痛そう
トイレを完全に密閉して、硫化水素を発生させて死ぬのが一番苦しまずに死ねるんじゃないか
とか、毎日「どうしたら死ねるか」ということばかり考えていました。
でも、その度考えるのは
ここで包丁を刺して死んだら、この先母はキッチンに立てなくなってしまう。
交通事故を起こしたら、他の人に迷惑がかかってしまう。
硫化水素を発生させたら、家族が巻き添えになってしまう。
どんな死に方をするのが、誰にも迷惑をかけずに済むのだろう。
どんなに考えても、その答えは見つかりませんでした。
私は、私が死んだら家族が悲しむ、とは考えませんでした。
ただ、迷惑をかけてしまう。
としか、考えていませんでした。
ああ、そうか。
私が死んだら、悲しんでくれる人がいるんだ。
そう思ったのは、最近この話を大好きな叔母に話した時、叔母が泣いたからでした。
「あんた、そんな辛い思いをしてたの…!」
と、泣きながら私の手を握ってくれた時、初めて気がついたのです。
「生きていてくれて良かった。乗り越えたんだね。」
そう、私は死ぬことしか考えられない毎日から抜け出すことが出来ました。
どう抜け出したか。
そのキッカケをくれたのは、意外にも母でした。
働きたいのに働けない。親のすねをかじりながらの療養生活。
こんにちは、いちるです。
自分がパニック障害だとわかってからしばらく、自宅療養の日々を過ごしていました。
先生から
「パニック障害は、頑張り過ぎてしまった人がなりやすい病気。今はとにかく休養が必要。」
と言われ、都内で一人暮らしをしていた私は、両親と相談し、部屋を引き払って実家に帰ることになったのです。
療養している間、収入がなくなった私は、完全に親のすねをかじる生活でした。
「働けないのだから仕方ない。生活費のことは心配しなくていい。」
という父の言葉に甘えていました。
嘱託職員として働いていた父。
現役の頃に比べたら収入も減り、それでも老後のためと貯金していただろうに、きっと私のためにその貯金から私のために生活費を捻出してくれていたんだろうと思います。
私自身、子供を持ったからこそ
「子供のためなら」
と、貯金を切り崩す事など何ということはないいのだとわかりますが、当時の私は親に生活費を出してもらっていることが申し訳なくて情けなくて。
働きたい気持ちはあるのに、体が言うことを聞いてくれない。
漠然とした不安感で毎晩眠れない。
夜眠れないから、比較的症状が落ち着いている昼間に眠気が来て、昼に寝る。
という、昼夜逆転の生活でした。
夕方になってくると、ソワソワし始め夜はとにかく怖かった。
これはパニック障害について勉強していてわかったことなのですが、
昼間は交感神経が優位ですが、夕方になってくると副交感神経系が優位になります。
すると、リラックス状態にある時に、不安やネガティヴな思考を呼び起こしやすくなるそうで。
ということは、せっかくお休みしている交感神経を無理やり刺激している状態。
リラックスすべき時間に、戦闘状態になってしまうわけです。
特に私は昼夜逆転の生活で体もおかしくなっていましたから、もう体内リズムもめちゃくちゃでした。
今でこそパニック障害についての知識も増えましたし、対処法などもわかってきましたが、当時は今ほどネット環境もなかったので、とにかく夜ちゃんと寝るということくらいしか出来なかったので、昼間どんなに眠くても頑張って起きて、夜になったら眠くなくても目を閉じている、というのを繰り返していくうちに、ちゃんと夜眠れるようになりました。
それから2ヶ月ほど過ぎ、体調も落ち着いてきた頃、いい加減働かなければと思い、私は求人情報誌でバイトを探し始めました。
母からは
「もうずっとこっちにいるつもりなら、バイトじゃなくて正社員の仕事を探しなさい。」
と言われ、正社員の仕事を探したのですが、なんの資格もスキルも持っていない私が正社員の仕事を探すのはなかなか大変でした。
しかも、パニック障害。
いつ発作を起こすかわからない、そんな状態で正社員として働くことなんて出来るのだろうか。
不安しかありませんでした。
しかし、いつまでも親に頼ってはいられません。
とにかくなんでも良いから、資格もスキルもなくても正社員で働けそうなところ。
社員登用制度のあるところで働こう。
そう思って、人材派遣会社に登録するところから始めようと思いました。
早く、働かなければ。
しかし、この私の気持ちの焦りが、これまでの人生最悪の精神状態を作り出すこととなってしまったのでした…。
真面目、繊細、責任感が強い…だからこそ。
こんにちは、いちるです。
さて、ついに精神科のドアを開いた私です。
初めて発作を起こしてから、数ヶ月が経過していたと思います。
そこはとても有名なクリニックだそうで、何時間待ったかわかりませんが、ようやく名前を呼ばれ、診察室へ。
今まで自分に起きたこと、病院で検査を受けてたけれど異常がなかったことなどを先生に話しました。
先生は私の顔を見ながら、うんうんと頷いてしっかりと話を聞いてくださいました。
そして
「間違いなく、パニック障害だね。」
と。
ああ、やっぱりそうなんだ。
そう思った瞬間、病名が確定した安堵感と、まさか自分が精神を患うなんてという絶望感が交錯しました。
戸惑いを隠せないでいる私に、先生が語りかけました。
「…パニック障害は、真面目で繊細で我慢強く、責任感の強い人がなりやすい病気なんだ。初めて発作が出てから少し時間が経ってしまっているから、治るのにもそれと同じか、もしくはそれ以上に時間がかかると思ってね。焦らず、じっくり治していきましょう。」
「………はい。」
治るのに時間がかかる
その言葉にまた絶望感が襲ってきました。
風邪と同じで、薬を飲めばすぐに治ると思っていました。
少なくとも、数ヶ月はかかる。
その数ヶ月の間、私は発作の恐怖に耐えなければならないのか…。
俯く私に、先生が静かに口を開きました。
そしてこう言ったのです。
「病名がわからなくて、何ヶ月も頑張っていたんだね。
あなたはとても強い人だね。」
その瞬間、涙をポロリと頬を伝いました。
え?あれ?私、泣いてる…?
まるで漫画みたいに、自分の意思とは関係なく涙が次から次へとポロポロ零れ落ちました。
「不安だったね、大丈夫だよ。」
と言いながらティッシュを渡してくださいました。
それから薬を処方してもらい、パニック障害について書かれた冊子をいただきました。
そこには、家族は患者に対してどう接するべきか、といった内容も書いてありました。
クリニックを後にした私は、心が少し軽くなっているのを感じていました。
ずっと、自分の体に何が起こっているのかわからなかった。
どこにも以上がないなら、ずっと治らないこの不安感と軽いめまいと頭痛はなんなんだと。
その原因がやっとわかった。
病名がわかった。
薬を処方してもらえた。
それだけで、ずっと胸に重く居座っていたモヤモヤから解放された気分でした。
と同時に思いました。
病気はなんでも早期発見・早期治療が重要なのだと改めて思いました。
もっと早く、精神科を受診していれば…と後悔しました。
そして、ここからパニック障害との長いお付き合いが始まったのです。